2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」で伊勢谷友介さんが熱演し、再び注目をされている吉田松陰。歴史好きであれば、その名を知らない人はいないであろう大物です。佐久間象三に師事した幕末の思想家で、久坂玄瑞・桂小五郎(後の木戸孝允)・高杉晋作・伊藤博文をはじめ多くの人物の教育にあたり、幕末の志士の思想へ大きな影響を与えたと言われています。
今回は、明治維新の礎を作ったとも評価されている「吉田松陰」ゆかりの地を、ストリートビューを使って巡ってみたいと思います。安政の大獄により満29歳という若さで亡くなった松陰は、いったいどのような景色を眺め過ごしていたのでしょうか。過激な思想家でもあるため賛否もありますが、多くの名言を残した松陰の魅力に迫ってみたいと思います。
世界遺産でもある萩の名所|松下村塾
2015年に「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産に登録された松下村塾は、もともと松陰の叔父である玉木文之進によって開かれました。松陰自身も入塾し、厳しく教えられたと伝えられています。当初は10畳半一間であった松下村塾も、松陰が教えたころには塾生が増え手狭になり8畳の一間が増築されました。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
柱には「自非讀萬巻書安得為千秋人 自非軽一己労安得至兆民安」(万巻の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん 一己の労を軽んずるにあらざるよりは いずくんぞ兆民の安きを致すをえん)と記してあります。簡単に言うと「たくさんの書物を読まないで、歴史に名を残す人物にはなれない 自分の苦労することを何でもないと思わないようでなくては、世の人々を幸せにすることは出来ない」という意味だそうです。命を賭して、一君万民・草莽崛起を唱え続けた松陰らしい言葉ではないでしょうか。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
松下村塾は現在「松陰神社」が管理しています。萩の松陰神社は、明治23年に松下村塾の出身者が中心となり、吉田松陰の霊を祀る祠が建立されたことが始まりです。その後伊藤博文等の働きかけもあり、公の神社として認められることになりました。「吉田矩方命(吉田松陰)」のほか、塾生・門下生の53柱が御祭柱として祀られています。
松陰神社
電話:0838-22-4643
住所:山口県萩市椿東1537
公式HP
小瀬川の別れと錦帯橋|岩国市
松陰は、生前多くの土地を巡遊して廻っていました。長州藩士である松陰が江戸へ行くためには岩国を通る必要があり、記録によれば少なくとも4度は江戸に向かうため岩国を通っていると伝えられています。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
1853年の2度目の江戸遊学の時に、錦帯橋を見学に行ったそうです。その際橋のそばに、「藩政に対して不満があれば、身分を問わず訴えて欲しい」という掲示文があったことに大変感銘を受け、日記に記したと言われています。ちなみに錦帯橋は世界でも珍しい「木造5連のアーチ橋」として有名で、岩国市を代表する素晴らしい観光スポットです。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
1858年、幕府が朝廷の許可をとらずに「日米修好通商条約」を締結したことに激怒した松陰は、討幕を表明し老中首座の暗殺計画などの過激な討幕計画を周囲に持ち掛けるようになりました。計画は頓挫しましたが、幕府に危険視され野山獄に幽閉されることになります。その翌年江戸への護送が命じられました。
護送の途中小瀬川で、「夢路にも かへらぬ関を打ち越えて 今をかぎりと渡る小瀬川」という句を残しています。夢の中でも長州に帰ることが出来ないという覚悟を謳った句です。その覚悟通り、同年の10月に斬首されました。
小瀬川のほとりには、いまでもひっそりと「小瀬川の別れ」の碑が佇んでいます。
ペリー2度目の来航、松陰密航未遂の地|下田
1853年にペリーが浦賀へ来航したときに黒船を見た松陰は、西洋文化の先進性に心を打たれました。その素晴らしさを実感するため、もっと世界を見てみたいと強く願い、1854年に再度ペリーが来航したときに密航を企てています。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
「弁天島」に小舟を隠しておいた松陰と金子重之輔は、小舟をペリー艦隊に寄せ密航を嘆願します。しかしその嘆願は、残念ながら拒否されてしまいました。小舟も流されてしまったため、2人は下田奉行所へ自首し、その結果幽閉されることなります。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
ペリーは2人の密航に対して「日本においては大きな罪でも、我々からすれば好奇心から起こした讃えるべき行動であると思っている。2人に極刑が与えられることが無いことを望む」という趣旨の文書を残しています。この声が幕府に通ったかはわかりませんが、幸運にも処分は幽閉に留まり処刑されることはありませんでした。
松陰の眠る地|松陰神社
もともと長州藩主の別邸があった場所に、松陰の門下生であった高杉晋作・伊藤博文などが松陰の墓地を移したことが始まりになっています。その19年後、門下生によって墓のそばに松陰を祀る神社が作られました。松陰神社のすぐ近くに、安政の大獄を起こし松陰を死罪に追いやった「井伊直弼」の菩提寺「豪徳寺」があることは不思議な因縁を感じずにはいられません。
↓↓画像の上でクリック&ドラッグすると、360°の景色が楽しめます↓↓
吉田松陰と他の烈士が眠る墓所には、明治元年(1872年)に木戸孝允が寄贈した鳥居が現存しています。これは、幕府軍に破壊された墓所を孝允が修復した際に奉納されたものです。孝允は松下村塾の正式な門下生ではありませんでしたが、長州藩の藩学である「明倫館」で直接松陰から兵学を学んでいます。その際「事をなすの才あり」と称され、その後も門人の礼を取り続けていたようです。松陰の影響力の強さがうかがえますね。
松陰神社
電話:03-3421-4834
住所:東京都世田谷区若林4-35-1
公式HP
まとめ
どうでしたか。吉田松陰の魅力に気付いてもらえたでしょうか。
「親思う 心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらん」
「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」
「吾 今 国の為に死す 死して君親に負かず(そむかず) 悠々たり 天地の事 観照するは明神に在り」
松陰は死の前に、この3つの言葉を残しました。松陰の思想の全てが正しいとは言えませんし、今の世の中が松陰の時代よりも「いい世の中」なのかはわかりません。ただ、松陰が最期に残した3つ言葉には、感じるところがあるのではないでしょうか。この機会に松陰の地を巡り、その言葉の意味を考えてみるのも楽しいと思います。
CONTACT
資料請求・各種お問い合せは、お問い合せフォーム、
またはお電話にて承っております。お気軽にご連絡下さい。
- TEL
- 03-4405-9228
- メールでのお問い合わせ